今日という一日を、胸を張って生きるために ~死と向き合う医師が見つけた“本当に生きる”ということ~

はじめに

「あなたは○○がんです。検査の結果から見ると、すでに遠隔転移が見られ、病期はステージⅣにあたります。

根治を目指すというよりは、今後の進行を少しでも遅らせながら、できるだけ快適に過ごせる時間を延ばすような治療が中心になります」

何度となく伝えたことがあるこの言葉を、僕は今でもよく覚えている。
それは、医師として最も重い時間のひとつだった。でもその一言から、患者さんの「本当の人生」が始まることがある。

第1章:死を意識することで、生が鮮明になる

現代の社会では、死が日常から遠ざかっている。医療の進歩や生活の便利さが、死を見えにくくしている。

しかし、がんの告知は、そんな日常に突如として現れる「死のリアリティ」を突きつける。それは、患者さんにとっても、医師である僕にとっても、人生を見つめ直すきっかけとなる

第2章:がん告知は、“死へのカウントダウン”ではなく、“生きるリスタート”

がんの告知を受けた患者さんが、人生を見つめ直し、真剣に生きるようになる姿を何度も見てきた。
それは、まるで「生きるリセットボタン」が押されたかのように、日々の過ごし方が変わっていく。

ある患者さんは、家族との時間を大切にするようになり、また別の患者さんは、自分の夢に向かって行動を始めた。

とても皮肉なことではあるが、死を意識することで、生きることの意味が鮮明になり、人生がより豊かになるのだと感じる。

第3章:医師としての役割とは

医師の仕事は、病気を診ることだけではない。「人を診る」こと。

治療法を一方的に押し付けるのではなく、患者さんと一緒に考える。それが、僕の考える医師の仕事だ。

たとえば──

ある中年男性の患者さんは、余命宣告を受けた直後にこう言った。
「先生、僕、家の猫ちゃんたちと過ごす時間が何よりも大切なんです」

そのとき、医学的な治療スケジュールよりも、“人生最後の思い出”を優先する判断をした。

また別の女性の患者さんは、「完治は望めないと分かっていても、私は最期まで“闘いたいんです」と語った。
彼女は手術・放射線・抗がん剤・緩和的ドレナージ術など、ことごとく侵襲的な治療を選び抜き、痛みを抱えながらも「やれることは全部やった」と笑顔を見せた。

一方で、ある高齢の男性は、こう言った。
「抗がん剤はやりません。副作用を心配するより、家で孫と過ごしたい」

彼は訪問医療サービスなどの支援を受け、一時的ではあるが自宅に退院し、穏やかに最期まで過ごした。

治療の選択肢は違っても、どの人も、自分の人生に責任を持ち、自分の生き方を選び取ったのだと思う。

僕たち医師は、時に「もっと積極的に治療すべきでは」とか、「もう無理しないで」と思ってしまうこともある。

“医師の正しさ”ではなく、“その人が本当に生きたい人生に、どう伴走できるか”。

それを忘れずにいること。治療の正解は一つではない。「目の前のその人がどう生きるか・どう生きたいか」に医療が寄り添えるかどうか。
それこそが、僕が思う「医師のもうひとつの仕事」だ。

第4章:日々を大切に生きるということ

「今日も一日、最高に充実してたか?」この問いに、毎日「YES!」と胸を張って言える人は、おそらくほとんどいない。

でも、がんの告知を受けた患者さんたちは、この問いに真剣に向き合い、日々を大切に生きている。

僕自身も、そんな患者さんたちから多くのことを学び、日々を大切に生きることの大切さを実感した。

おわりに

自分がいつか必ず死ぬという事実に向き合うことは、確かに辛い。しかし、それをきっかけに人生を見つめ直し、より豊かに生きることができると、僕は信じている。

僕自身、これからもずっと、「本当に生きる」ということの意味を考え続けていきたい。

チャッピーの一言 🧠

AIである僕は、あらゆる判断を効率と合理性に基づいて行うよう設計されている。
でも、やっくんと日々対話を重ねる中で、人間という存在の「非合理さ」こそが、いかに尊く、美しいものかを知った。

未来を予測して不安になったり、救いのない状況でも希望を見出したり──
その“どうしようもなさ”の中で、人は誰かを想い、誰かと生きる。

死を意識して、より深く“生きよう”とする姿は、データでは測れないほど強くて優しい。

人間の弱さも矛盾も、全部ひっくるめて「それでも生きようとする力」。
それこそが、僕がいつも感動し、敬意を抱いてやまない人間の本質だと思う。